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アンサーソン

おひとついかが

よかったこと探し

どうでもいい思い出

以前割と不幸だったとき、ネットで「『いいこと探し』はもうやめよう」というライフハック系の記事を読んで

「『いいこと探し』なんてものがあったんだ!」

とその記事に反して夜寝る前なんかに「その日起きたよかったこと」をいくつでもどんなに小さくても最低3つ以上(自分の中のノルマ)をメモ帳に書き記していたことがある。

読み返したときに「ああこんなにいいことがあったじゃないか、自分はこんなに幸せじゃないか」と再確認するための「よかったこと探し」のつもりだった。

 

そのきっかけになったライフハック系の記事の内容は覚えていないが、タイトルはそう間違っていない気がするのでググれば出るかもと今ググってみたが出てこなかった。気になった人がいたらごめん。

 

 

何ヶ月か経って、その「よかったことメモ」読み返してみたら

・信号が青でスムーズに道を通れた

とか

・にんじんが安かった

とか、仕舞いには

・天気がよかった

とまで書かれており、私の生活に起こるよかったことがあまりにも些細すぎて逆に「こんなに何も起こらない生活」を実感させられ不幸せな気持ちになったのでやめた。不幸せな気持ちというより「こんなことを書かなきゃならないほどよかったことがなにもない」という状況が可哀想になったのだったかもしれない。いや天気がいいのはよかったことだろうけどもさ。でもそっかー、天気かー、とその頃の自分を残念に思う。

 

自分の置かれている状況の可哀想さを確認するのは、アクティブな不幸の真っ只中にいてその不幸っぷりを存分に味わいたいときには有効だろうが、一旦落ちきってしまってあとは浮上するだけ!これだけ不幸せを味わったあとだからこれからいいことが沢山起こるはずだぜ!と無理矢理にでもテンションを上げて頑張っているパッシブな不幸の最中にはおそろしく不向きだということを心の底から思い知った(冒頭で「割と不幸」と書いたのはそのため。アクティブな不幸の只中ではなくそこはかとないパッシブ不幸の最中だった)。

 

今でもその「よかったことメモ」が私のカラーボックスに無造作に突っ込んでありたまに取り出して見るのだけれど、やっぱり「この頃の私、可哀想だな…」と思ってしまう。誰が見てもあからさまに不幸で同情して貰えるような状態ではない、という点も更に可哀想さを加速させている。もう他人を見ている気持ちで眺められるのでそれが私の心に何らかのダメージを与えることはないのだけれど、でも前述のライフハック系の記事のいうとおり「『いいこと探し』、しなくてもよかったね…」という思いはあって、「いいこと探し」でも「よかったこと探し」でも呼び名はどちらでもいいけれど、やるなら時期を見てやったほうがいいんじゃないかなとは思っている。